2014年8月19日火曜日

流木を立てる

書類資料を整理していたら、かつて行ったパフォーマンスの写真が出て来たのでアップします。2001年9月16日。ふなばし三番瀬海浜公園にて。三番瀬に漂着した流木を建てる行為。三脚に固定したカメラをタイマーを使い5分間隔で自動的にシャッターを切るように設定。12枚だからちょうど一時間のパフォーマンス。観客を呼ばずに一人で行った。三番瀬にはこのパフォーマンス以前から通っているし、今現在も折に触れて訪れている私にとっては大切な場所。今年の春に急逝したPaul Weihsさんにも、三番瀬でダンスする私を撮影してもらった。2012年の秋の事。そして今年の7月に矢尾伸哉氏と共同制作した「Osiris Mashine」 で使用した映像も、三番瀬の海に横たわった私の頭部であり四肢である。同じ場所を時を経て何度も訪れるのは、その場所に立つと過去の様々な出来事が想起されるので、ちょっとした時間旅行のようなものだ。でも写真を見てもあのとき自分が何を思って行為をしていたのか今ひとつはっきりしない。それでも流木のように経験の渚に何かが堆積しているんだろうな。












2014年7月12日土曜日

作品展示告知

「僕ら、ウイーンの人間はしつこいよ。反復を厭わない。アングロサクソンとはその点違うかも。また何年後かに、フジオ、君の肩をポンと叩くかもしれないよ。」居酒屋で冷酒を飲みながら彼は言った。「そうそうフジオがウィーンに来るときはワインの新酒が飲める秋がいい。ウィーン近郊の山に新酒を飲ませる酒場があるんだ。きっと気に入ると思うよ。」

予期せぬ再会がもたらした豊な経験があり、その濃密な時間を回想することに喜びがあることを私は知った。
始まりはこの動画だった。



東京への手紙 | Letter to Tokyo from Paul Weihs on Vimeo.
Paul Weihs撮影2012年秋東京湾三番瀬にて
あの年の秋に書いた私のブログです。
http://fujioh3776.blogspot.jp/2012/09/blog-post.html


予期せぬ断絶によって心身に刻まれていくものがある。それはヒリヒリとした鋭さと、ある種の重さをもったもの、それが虚しさや悲しみを突き抜け、ずっしりとした島のような、山のようなものを、身体の奥ふかくに形作る。

作品展示をします。よろしくお願いします。

人の名前。
その名を持つ人の生と他者との繋がりを内側に秘めた繭。

呼びかける。
その人に向け、その名を私が口にする時。

記憶の伝達。
その人の人生について私の記憶を第三者に伝えようと、
その名を私が口にする時。

私とその名を持つ人がつながった時、
第三者がその名を持つ人の生の記憶を共有した時、
繭は解かれ、生糸になり、織物へと形を変える。
その人の名は消滅し、
あなたであり、君であり、彼であり彼女にかわる。

呼びかけと、記憶の狭間で、
静かに震える繭。
名前。

「パウルさん」

小林由香 萩原富士夫 藤本なほ子 矢尾伸也


オーストリアの映像作家、Paul Weihsは、"Letter to Tokyo"というプロジェクト制作のため2012年秋に一ヶ月の間滞在、しかし帰国後作品は未完のままこの春急逝してしまった。運命的な出会いから作品に関わることになった4人の日本人の思いを遺すための展示。
(表参道画廊 展示案内より引用)



表参道画廊+MUSEÉ F
2014年7月14日(月曜日)から7月19日(土曜日)まで。
12時から19時。最終日は17時まで。
以下画廊ホームページ
http://www.omotesando-garo.com/index.htm
http://www.omotesando-garo.com/link.14/paul.html


2014年6月22日日曜日

雑感2014・06・22

準−日記。

今週私は二つの撮影に関わった。一つは私が被写体。もう一つは私が撮影した。

後者は知り合いのアーティストの手伝い。行為による都市空間への介入。しかしパフォーマンスアートとしてではなく、映像作品の為のスケッチのようなもの。例えばこのようなことを撮影した。アーティストは歩道橋を昇る。そして橋の真ん中で立ち止まり、空を見上げ、右手の人差し指で空の一点を指し続ける。ある一定の時間の経過後何も無かったかの様にアーティストは歩き出し、歩道橋を降りて画面から消える。アーティストの画面への出現と消滅は、歩道橋の形態から導き出された画面構成からあらかじめ予定されている。しかし指で空を指すことは予測できない。歩道橋は普通に歩行者が多く歩いていたのだが、その指差し行為に戸惑い空を眺める人が何人もいた。その様子を離れた場所から固定アングルで撮影した。歩道橋という設備から生み出された、歩くという身体の動きに、ふっと介入する指差し行為。大事なのは歩行者を困惑させることが目的ではない。それを更に映像として見ている人の心身に働きかけることが目的なのだ。都市の環境を構造とするならば、歩行する身体はその構造から生まれた機能であり、アーティストの行為は、その機能の流れの中に生まれる異なる位相の機能であり、そのとき構造のデザインは、その映像を見る者にとっては、本来の意味から僅かではあるが隔たりを生じている。


私は再びこの場所に来た。
そしてあの日と同じ様に水の中に身を横たえる。
浮かぶでも無く、沈むでも無く。
遠浅の海は何処までも広がった海水のシーツ。
海中から陽の煌めきを見ようとするが、
目が滲みてよく見えない。
引き潮の時。
沖の方へと引き寄せられつつも、
私のからだはその場にとどまる。
面白いことに、立って歩いているとすぐに逃げてしまう、
小魚達が私のからだの廻りに集まってくるではないか。
どうやらわたしを流木の類いと思っているらしい。
彼らは私のからだの影にかくれて、
鳥や大型魚から身を守ろうとしているのだろう。
はやく、沖へ行きなさい。
もうすぐここは干上がるよ。
潮の流れに引きずられ、私の両手は干潟の砂に潜り込んで行く。
もはや蟹や貝にも親しいわたしのからだ。
潮の満ち引きが、私のからだの形を変えていく。
場所の振付。海のダンス。浅瀬を転がる。
海水は澄んで美しい。
砂もさらさらだ。
気がつけばY君が膝まで水に浸かって立っている。
一眼レフを取り付けた一脚を、海の中に突っ立てて。
ああ、Paulさんと同じ姿勢だ。
あの日の彼と同じ格好で海の中に突っ立っている。
海の中に転がる人を、撮影する人は同じ装備、同じ姿勢になるのは当たり前だ。
でもあの日のPaulさんをY君は見ていない。
あの日彼が撮影した映像は誰も見ていない。見ることができない。
だけどあの日のPaulさんと同じ様に、
Y君は「右手をあげて。」「次は左手。」「足を広げて。」等々と私に指示を出す。
ああこれも、遠浅の干潟の海が、人を導くんだろうなと、私は思ったのでした。


作品を制作する為には、他者に開かれていなければならない。
そして同時に孤独の中で、己の思考を吟味し、身体を精査しないといけない。
ただ一人きりで、黙々と井戸を掘らないといけない。
でもあるとき水脈にあたる。
いやあたらないかもしれない。
どちらにせよ極めて私的な行為が、
己の思惑や企てを超えて、
他者にまみえることになるかもしれない。
時の隔たりも、
生死の境もこえて。

そんな思いを持つ私は、

楽観的なのであろうか?

2014年6月10日火曜日

「歩くこと」から始める。その1─── 渡良瀬から東京へ。

は人生において「歩く」とか「散歩」の術を理解しているひとにほんのひとりかふたりしか出会ったことがありません。こういう人はいわばさすらうsauntering(サンタリング)才能をもっているのでした。この言葉には「中世に国中を放浪し、聖地へà la Sainte Terre(サンテール)行くという口実で施しを求める怠惰な人々」から来ていますが、この由来はみごとです。(1)そしてついには子供たちが、聖地へ行く人(サン・テーレ)だ、とはやし立てたのです。さすらう者は聖なる土地へ行く者ということになります。口実だけであって、本当に歩いて聖なる土地に行かない者は、単なる怠け者、無責任な人にすぎません。聖なる土地へ行く者が、私のいいたいよい意味でさすらう者なのです。ところで、この言葉を土地無し・宿無しsans terreから引き出す説もあるようです。この場合は、特定の家をもたず、どこであっても我が家、ということになります。というのも、これはこれでさすらいの秘訣だからです。いつも家にじっと座っている者は、これこそ札付きの宿無しといえるかもしれません。それにたいしてさすらう者の歩みは、曲がりくねって流れている間も、かならず海への最短コースを求めている川を同じようであり、気まぐれなどではないのです。でも私としてはやはり、最初の語源を好みます。実際これが一番有望です。歩くことは、無神論者の手から聖地をとりかえすため、私たちの内なる隠修士ペトルスによって説かれる一種の聖なる戦いなのです。(2)

ヘンリー・ソロー『歩く』 山口 晃 訳 ポプラ社37頁より引用


訳注(1)「さすらう」saunteringの語源は明確ではなく、いろいろ考えられてきたようである。「自称聖人」フランス語s'aventure(冒険する)など。ソローが採用した「聖地」a la Sainte Terreはサミュエル・ジョンソンによる。
(2)隠修士ペトルス(1050〜1115)は第一回十字軍の唱導者。


先日群馬県館林市にある雲龍寺という渡良瀬川河畔にあるお寺に行ってきた。
雲龍寺


        


寺の山門の向かい側には土手を上る階段があり、渡良瀬川が見渡せる。
1896年明治29年、7月から九月にかけて渡良瀬川で3度の大洪水が発生し足尾銅山による鉱毒被害は江戸川、利根川を経由して東京方面にも拡大。10月。田中正造はここに足尾銅山鉱業停止請願事務所を設置した。雲龍寺は被害地の中央に位置し、渡良瀬川の下川田河岸からは東京に汽船が出た時もあり交通の便にも恵まれていた。群馬、栃木、埼玉、茨城、4県の鉱毒被害民闘争の拠点となり渡良瀬川沿岸被害地の代表者や青年たちが集まった。被害民達は、正造の国会での精力的な活動にも関わらず依然として足尾銅山の操業を停止させない国に対して、当時の言葉で「押出し」という直接請願行動を行った。雲龍寺に集まった大勢の被害民達は徒歩で東京へ向かい、関係省庁や大臣等の私邸を訪れ鉱毒の被害を訴え鉱山の操業差し止めを請願した。押出しは1897年明治30年に第一回目、第二回目、1898年に第三回目が、1900年に第四回目が行われている。問題はその四回目である。東京に向かって歩き出した3000人余りの被害民が、利根川沿いの川俣(現群馬県明和町)で待ち構えていた警官隊に阻止され68人が検挙された。川俣事件である。http://ja.wikipedia.org/wiki/川俣事件
押出しは、第一回目から武器も持たず、暴力も振るわず行われきた。第四回目もそうであったとされいる。また4回目は三回目の押出し以降、念入りに計画され一年間の準備を経た後、実行に移された。押出しの日時、1900年(明治33年)2月13日は正造の国会での質問日でもあった。国会での正造の活動を連携して多くの被害民が東京に押し寄せる計画であった。事件の報を東京で受けた正造は権力の暴力を糾弾する質問を続けた。正造が議員を辞職したのが翌1901年明治34年の10月、明治天皇に直訴したのは同年12月のことである。いかに川俣事件が足尾鉱毒事件全体の流れの中で重要な局面であるかがわかる。




 鉱毒事件や田中正造は、広く知られるようになった。だが、鉱毒事件の核心である「川俣事件」については、まだそれほどでもない。
 公害の原点といわれ、百年鉱害と注目される足尾鉱毒事件の、クライマックスに「川俣事件」はあり、正造の明治天皇直訴も、その中の一齣だった。〜中略〜 
 六十八名が検挙され、予審、前橋地方裁判所、東京控訴院、大審院(いまの最高裁)、そして仙台控訴院と、裁判が続いた。その間に田中正造や被告人の奮闘と、百人近い大弁護団、さらに、地元はもちろん東京はじめ全国的な支援活動によって、ついに無実を勝ち取った。(無罪判決ではない)
 この川俣事件は、権力者の謀略と、社会へおよぼした影響を考えるとき、のちの大逆事件・松川事件とともに注目されるべき事件である。
 そして、鉱毒被害者が、田中正造の指導下に、法を武器として闘い抜き、明治の支配権力に打ち勝ったことは自由民権運動のなかでの、武器によった秩父困民党とは、また異なる大きな教訓となるものである。
要約川俣事件増補版 布川 了著 2頁より 発行・NPO法人足尾鉱毒事件田中正造記念館 



雲龍寺には川俣事件の被告68人と、さらにその前の事件の被告もあわせた78名の名が記された足尾鉱毒事件被告の碑があった。


雲龍寺の田中正造の墓。正造の遺骨は被害民によってゆかりの地に分骨された。合掌。

足尾銅山や渡良瀬遊水地旧谷中村は何度も訪れている私ではあったが、雲龍寺は今回始めてである。足尾銅山は廃墟を探訪するロマン主義的な観点からもアプローチ可能な場所だ。渡良瀬遊水地はその場所にかつてあった谷中村が消滅したという悲惨な歴史を知らずとも、ゴルフやサイクリング、バードウォッチング、珍しいところでは熱気球飛行などといったアウトドアスポーツやレジャー目的で訪れる人も多い。しかし雲龍寺を訪れるということは、足尾鉱毒事件の核心に触れる事なのだ。渡良瀬川の、のどかな田園風景の中の重々しい記憶の場所。
 
私は一つの実践を企てている。雲龍寺から徒歩で東京へ向かって歩いてみようと思う。

雲龍寺を出発し川俣事件の場所と通過し、東京へ。一日で歩ける距離ではない。日を分て歩いてみようと思う。徒歩で東京まで歩いた鉱毒被害民の「押出し」を自分の足でトレースしてみたい。正確な道筋がわかっている訳ではないが渡良瀬川から東京までの距離を実感したい。

足尾銅山で産出された銅は、電線や電話線、大砲や戦艦の砲弾の材料として世界的な需要があった。輸出された銅によって得た外貨は日清日露両戦争の戦費なった。電気、通信、軍事といったテクノロジーは、地理的差異および距離を一気に縮小させ消滅させる方向にその力を向ける。

鉱毒事件はそのテクノロジーの向かう方向とは反対に、場所の問題として立ち上がる。渡良瀬川流域という場所との関わりの中で生きる事が、苦しみを生み出す。勿論苦しみの元凶はわかっている。だから被害民達は群れをなして歩き出す。武器ももたず、暴力もふるわず。

「歩くこと」、テクノロジーや権力とは異なる身体の位相。その位相でしか考えられないものや、伝えられないもの、表せ得ないものがある。私はこの事件の当事者でも関係者でもない。この数年足尾銅山や鉱毒事件を学び、近代を自分なりに考えているだけだ。ただ書籍を読む事や、歴史的現場の風景をヘリテージツーリズム風に見る事だけではすまない自分の欲求がある。「歩くこと」その愚鈍な行為から始まるものが有るに違いない、そう思いたい。

ただここであまりにもヒロイックな感情に溺れる事は警戒すべきだと思っている。

田中正造の人物評価も関係してくる。義人だけでは、くくれない豊かな思想の持ち主なのだから。

冒頭に引用したソローが、森の中で生きた単なる自然愛好家ではなく、奴隷制度と戦争に反対して人頭税を払わず投獄され、その経験から「市民的不服従」というエッセイを書き残し、それが後にガンジーやキング牧師に影響を与えた様に。

岩波現代文庫「田中正造 未来を紡ぐ思想人」小松 祐 著をよんでいておもしろい正造の言葉を知った。

「空気の中ニ生活して風とともニ飛び廻るのです。山を見たり川をみたりしてハたのしみと又かなしみととりまぜて皆此眼中ニ落ち込みます。長き天め土の大寿命のその中ニ生まれ出でゝも、人生命みぢかで風前の燈火、又朝露の如し。虫としてハぶよの命の朝ニ生れて夕べに死するもしらず、人生の私慾ハ何んの必要あるか」田中正造全集18巻560頁
「空気の中ニ生活して風とともニ飛び廻るのです。」なんと愉快なフレーズだろうか。ソローのいうsunteringの才能、さすらう才能をもった正造の姿がみえないだろうか。

確かに正造も歩く人であった。晩年の治水行脚では関東の河川を半年で1800kmを歩いたらしい。雲龍寺のあとに訪れた田中正造記念館の事や、そこでの出会い、治水行脚の事はまた後日書きたいと思う。

渡良瀬での歩行は、今月末から始める予定。それもまたレポートします。
















2014年5月8日木曜日

雑感2014・05・08

人の身体は、無からは生まれては来ないわけで、命の長い連鎖の結果それぞれの身体を獲得している。その現在の身体だって不変なものではなく、時々刻々と生成変化し続けている。確かにこの私が生きる身体は、一つなのだが、その由来や、細胞レベルの変化まで考えてみると、身体の生物的な側面において、身体の内側と外側とを分ける境界線を明確になぞることは難しいとおもう。そして身体の社会的側面においてはなおさら境界線が定めがたい。政治、ジェンダー、文化、経済、労働、権力、恋愛、家族、言語、様々な関係性と、力の流れの中で身体が形づけられている。外から来る力もあれば、内側から湧く力もあり、己の存在に確固たる確信を持つこともあれば、絶望でうちひしがれて消えそうな身体も、一人の身体におこりうることなのだ。ランニングをしているとき、登山をしているとき、食事をしているときに、労働をしている最中に、まさに今、己はダンスしているのでないかと思う時がある。それは僥倖である。なぜなら盤石な日常の身体の動きの中から、はぐれ、こぼれ落ち、未知の可能性の大陸に辿り着いてしまったのだから。たぶんそうにちがいない。そうであるはずだ。そうであってほしい。希望がそこにある。たぶんダンスというものは、圧倒的な力に対して、身体のあり方で身をかわし、力の闘争の場に一種の空隙をつくる行為かもしれない。ささやかであるが、なにものにも従属しない、自在な行為。端から見ると、無目的で、無意味かもしれない行為。ことをおおげさに語っているだろうか?否!ダンスとは本来ゆゆしきモノなのだ。Yes! Yes! Yes! 話を冒頭にもどす。私は、身体の境界線についてはなさなかったか。望むと望まざると、身体の境界はおぼろげなので、ダンスの僥倖を一人の身体の宝とするのではなく、分有する可能性を追求すべきなのではないか。身体を存在の類型の鋳型に押し込めようとする諸力に対して、ダンスの経験を他者に伝達し、他者と分有することが来たるべき身体の民主主義なのではないだろうか。《今・まさに此処で》ダンスを肯定することは尊い。しかし「一」は死を免れ得ない。「一」から「多」へ。ダンスするものが纏う衣服に注目されたし。それは企てであり、振付である。それはある種、言葉のようなもので編まれているので、諸言語に翻訳可能であり、諸国民が分有可能であるはずだ。「振付とは翻訳可能性のことだ。」


2014年4月2日水曜日

上演告知です。さそうすなお×萩原富士夫 SFオルガン公演「目まいのする散歩」

上演告知です。直前ではありますが。
去年より始動した、さそうすなお×萩原富士夫のダンスユニット、
SFオルガン(そうそう、ユニット名を作ったんです。)の第二回目公演、
Oval Dance series vol.2「目まいのする散歩」を4月6日(日曜日)に東京都立清澄庭園の中にある「涼亭」という場所で行います。(東京都江東区清澄3−3−9)
17時開場、17時30分開演です。チケット2,000円。(要予約 fujioh3776以下@Gメールで連絡ください)よろしくお願いします。



今回の作品は去年年末に上演したユニットのデビュー作「目まいをする準備」の続編というか、ワーク・イン・プログレスというか、発展形というか、はたまた終止形なのかは定かでは在りませんが、前作同様に小説家武田泰淳の晩年の作品「目まいのする散歩」をもとにダンス作品の上演を試みます。以下当日パンフレット掲載予定の文章。

武田泰淳著『目まいのする散歩』はこう結ばれています。
—地球上には安全を保障された散歩など、どこにもない。ただ、安全そうな場所へ、安全らしき場所から、ふらふらと足を運ぶにすぎない。—

何気なく、確信的に、事故的に、足を踏み入れた場所には、踏み入られる前から既に夥しいものが在りつづけている。その幾つかに触れるざわめきと、気づかないで過ぎる無数のものを、両極に吊るしたい。

さそうすなお


上演にあたって、今回の私達のくわだてを、皆さんに説明しようとすると己の言葉の貧困に赤面せざるを得ません。かといって上演そのものにおいて身体がそれを雄弁に語れるかというとそれもどうやら怪しいのです。なぜなら斯く斯く然々の試みをダンスで表現しましたという事が仮に成功したとして、その場合におけるダンスとは畢竟、意味伝達の為の手段であって、私達が創作活動の端緒に置くダンスする意志が求めているダンスとは、全くかけ離れた代物なのです。ああ、この物言いをダンサー特有の、身体の経験を特殊化し言語の外側に逆に囲い込む、密教化あるいは神秘主義の立場と同定されることは暫し待たれよ。しかしこの言い回しの中にこそ、私達のダンスを巡る思考の誤謬と、ダンスを希求する熱病の原因が隠されているのもまた事実である。ダンスによって表そうとする「何か」はダンスする身体と分けようもなく、その「何か」がダンスそのもの別名である場合は、手段と目的の取り違えをこえて経験論の刷新を促す運動に転化するからだ。

O body swayed to music, O brightening glance,
How can we know the dancer from the dance?
おお、音楽に揺れ動く肉体よ、おお、輝く眼差しよ、
どうして踊り手と踊りを分かつことができようか。
Among School Children
William Butler Yeats

ウィリアム・バトラー・イェイツ「小学生たちのなかで」の最終フレーズ。


このイェイツの詩句は素晴らしい。まさしく!と叫びたくなる。しかし一方ではこうも考える。ダンスとダンサーを分け隔てることが出来ないのは誤りなのではないか?分離がなされないならば、ダンスにとっての上演は、作品は、踊る人を、ある特定の名前を持つ人が踊るのを観る事に回収されてしまうのではないか?そうなればダンスは反復され得ない身体の一つの特殊な出来事、(今、まさに、ここで、彼、彼女、彼等が)踊るという状況の中に囲い込まれ、それは無限に広がる事象の中で(ある日、ある場所)での上演という岩礁に乗り上げ座礁し、遺棄され難破しやがて朽ちていく船のようなもの。しかしそのような感傷にふける事なく、上演からダンスそのものをサルベージする試みも、まだ可能性として残されているのではないか?とも言いたい。ただし事象の大洋の中で先程の船を、巡航させる帆が孕む貿易風や偏西風のような風として、ダンスそのものが上演に到来するとは決して考えない。それは信仰告白であり、来るべき未来の経験論に繋がるものではないからだ。愚かしくも逃れようもない身体の営為の中にこそ問いは立てるべきである。興奮していささかヒロイックな語調になってきたが、武田泰淳の「目まいのする散歩」に私達が魅了されたのもこの点において他ならない。病により自らペンをとって執筆する事もままならない泰淳は、この作品を妻、百合子の手による口述筆記によって上梓する。散歩になぞらえた言表活動は、富士山の別荘廻りでのよろめいた歩行に始まり、明治神宮での百合子に付き添われたリハビリ歩行、三島由紀夫の切腹、時間を遡り関東大震災時の回想や、大戦下の中国の風景、しまいには船に乗りソ連に渡り、飛行機に搭乗し中央アジアへと旅行する事も散歩の範疇となるのだから自由闊達である。しかも百合子の視点による記述が数多くある。泰淳自身、百合子の日記を参照している事を隠そうともしない。何とも言えない不思議な魅力に満ちたテキストだ。そしてなにがなんでも散歩なのである。第一章の『散歩というものが、自分にとって、容易ならざる意味をもっているな、と悟った。』から、結びのフレーズ『地球上には、安全を保証された散歩など、どこにもない。ただ、安全そうな場所へ、安全らしき場所からふらふらと足を運ぶにすぎない。』まで貫いている。意識の朦朧とした晩年の泰淳にとって、「散歩」は「書く」事の別な呼び方である。しかも散歩の同伴者である百合子の見たもの、書いたものまで取り込んでしまう貪欲でいながら、他者に対して開かれた身体的行為なのだ。いや、それでは言葉足らずだ。「目まいのする散歩」において泰淳は書いていない。書いているのは武田百合子だ。百合子の意見も聞かなければならない。幸いにしてSFオルガンのさそうすなおさんは、『富士日記』を毎晩就寝前に愛読する武田百合子のファンであるのだ。百合子の意見は終演後にさそうさんに質問されたし。そして皆さんに念を押しておくが、今回の上演における私達のくわだては文芸批評ではなく、「目まいのする散歩」を読んだ体験を通して、ダンスに至る道をさぐる試みだと最後に付け加えたい。書かれたテキストの内容を再現するのではなく、散歩=書く=ダンスという等式が成り立つならば、あなたが支えるわたしの身体の重さは、すでにあなたの手によって口述筆記された私のすがたであり、あなたが見ている部屋の空間は、わたしが今まさにそこへ右足を踏み出そうとしている場所であり、あなたが耳にする声はもはや誰の声でもなく、etc etc・・・・・・

萩原富士夫


 


写真 矢尾伸哉撮影 涼亭にて3月23日